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みことばはみがき No.69

   マルコ 9:23-24
   イエスは言われた。
   「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
   するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。
   「信じます。不信仰な私をお助けください。」 

 教団の宣教区主催の中高生キャンプ、ティーンズバイブルキャンプがコロナ感染症の拡大の影響により、対面での開催が中止となり、代替としてリモートにて開催されました。
 神に祈っても聞かれない挫折、信じていても信じていると伝えられない挫折。神を信じているからこそ、神が働かれていないことへのショックの大きさ、不満が募ること、そのような歩みを信仰者たちは何度もしてきたことでしょう。

 一方で自らを省みると、どれほど、本気になって訴えていたかを問われたとき、どこかで叶えられない、仕方がないと思いながら祈っていることに気づかされます。
 また、友人関係に照らし合わせると、このままでは全体が悪くなることが分かっていても、これまで築いていた安定の関係が崩れることを恐れて、何も言わずに過ごしてしまうこともあります。

 信仰を養っても悩みが付きません。ただその悩みの質が変えられていくのです。自分の満たしから他者への働き、神の計画に仕える思いへと渡る悩みは決して否定的なものだけではありません。


    問題を避けた妥協には渇きが訪れる
    問題とぶつかった妥協には悩みが訪れる

みことばはみがき No.68

   ルカ24:32
   二人は話し合った。
   「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、
    私たちの心は内で燃えていたではないか。」

 夏休み特別活動、ジョイフルサマーホリデーが始まりました。昨年から始まったこの取り組みは子どもたちが教会で楽しい時間を過ごすとともに、聖書の御言葉に少しでもふれることを願って、8月の週2日、午前中に開催してきました。
 今年のみことばは十戒をテーマに、神さまと私たち、自分と他者との関係を大切にすることを学びます。10分ほどの短い時間であっても、教師の問いかけに考える子どもたちの姿があります。

 毎回参加する人もいれば1回だけ参加できる人もいる中で、どのような状況であっても、教会での思い出を数年後思い出し、その思い出とともにみことばが思い出すことができるでしょう。
 キリストとの出会いも似ています。生まれてから何度も知る機会があり、意識せずともキリストと関わる人もいれば、たった一度の機会でしっかりと関係をつなぎとめる人もいます。

 子どもたちにとって夏休みは一瞬の出来事ではなく、短く新しい日常です。限られた期間ではあっても、キリストと過ごした日常の交わりは、再会した時にも再び日常の交わりとなるでしょう。


    出会う頻度が関係を深めるのではなく
    出会いの形が関係をつなぎとめる

みことばはみがき No.67

   使徒 21:13
   すると、パウロは答えた。
   「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、
    いったい何をしているのですか。
    私は主イエスの名のためなら、
    エルサレムで縛られるだけでなく、
    死ぬことも覚悟しています。」

 休暇から岡山へ戻ってきました。北の大地から真夏の晴れの国に戻ってくると温度の違いに苦労しましたが、抗原検査を自主的に行い、陰性反応が出て、ひとまず安心しています。
 不思議なもので、岡山に戻って来ると途端に教会の働きであれをしなきゃ、これをしなきゃと考え始めるのです。実家にいる時は家族のことを考え、連絡があるときにほかを考えていました。

 思い返すと私にとって、その場所に行く、その場所に住むというのはそれぞれの地において新しい出会いや働きがありました。北海道時代は家族と家業、大学時代は留学生や国内外の旅、タイ時代はキリストとの出会いや献身、神学校時代は宣教と結婚、そして岡山では牧会と育児。はっきりとした特徴をもつ中で様々な出会いと交わりが与えられてきました。

 このような独特な歩みであっても、すべてが糸でつなげられているようでした。どれか一つが欠けていたらこのような歩みにはならなかったと思うほど、神の計画の確かさと賢さを感じざるを得ません。主は私よりも私を導いているのだと感じています。


 なすべきことをなすためにここに居り
 なすべきことがあるためにそこへ行く

みことばはみがき No.66

   マルコ 6:3
   この人は大工ではないか。
   マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。
   その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。
   こうして彼らはイエスにつまずいた。 

 夏の休暇をいただいて地元の北海道の家族に会っています。桜が丘の礼拝は録画での説教という新しい形にチャレンジします。
 一方で私は昨年開所された、新札幌聖書教会の伝道所であり、実家から徒歩10分以内の由仁オアシス教会の礼拝で説教奉仕をすることとなり、初めて地元の礼拝の中で御言葉を語ります。
 
 休みなのに説教するのかと考えるとなんだか気が休まらないように感じますが、離れている実家の家族と一緒に礼拝できることは喜びです。また、父を相手に説教奉仕をすることはなく、これからの人生でも数回しかないかもしれません。
 私が地元に戻るとほとんどの人にとっては牧師ではなく、仕出し屋の息子です。親にとっては子どもです。その立場が覆ることはほとんどないでしょう。それでも福音を宣べ伝えることをあきらめることはありません。

 礼拝の場で御言葉に向き合おうとするなら、私の言葉であっても、主が用いてくださり、地元や親子の関係を超えた、神との関係に招いてくださることでしょう。


    人との関係を何十年積み重ねていても
    永遠に積み重ねられる神との関係には及ばない

みことばはみがき No.65

   箴言 3:5-6
   心を尽くして主に拠り頼め。 自分の悟りに頼るな。
   あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。
   主があなたの進む道をまっすぐにされる。

 教団青年部が主催する青年キャンプに向けての準備を進めています。青年部奉仕3年目ですが、コロナ禍ということもあって、もっぱらオンラインばかりの奉仕であったため、対面での青年キャンプは参加したことがありませんでした。そのことに加えて、私にとっては初めて訪れるキャンプ場でもあったので、施設の様子や勝手は全くわからない状況でした。

 西地区のリーダーと言ってもわからないことだらけなので、講師であり昨年度まで青年部で奉仕されていた先生におんぶにだっことなっていました。
しかし、オンラインで生活を送ってきた大学生や、交わりのない中、教会奉仕をしてきた青年たちには自分のためのキャンプが実施できないことにいつも残念な気持ちになっていました。

 彼らの信仰の居場所と交わりの場を取り戻したい。そう願いながら暗中模索で進めていたキャンプは多くの人に祈られながら、期待され、予想していた30名を超える申し込みがありました。
 できることはわずかでも、その場があるなら、神が用いてくださり、招いてくださることを経験させていただきました。


    神との出会いの場を願うなら
    神がその出会いの場に招いてくださる

みことばはみがき No.64

   イザヤ 40:31 
   しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
   鷲のように、翼を広げて上ることができる。
   走っても力衰えず、歩いても疲れない。

 天気も不安定で働きも不安定な1週間を過ごすことになりました。働きの整理ができないまま動き回っていたこともあり、置きっぱなしになっていたものや忘れていたことのほころびが出始め、対応に追われる日が多くありました。
 本来であれば毎日の習慣(ルーティーン)として組んでなければならないものの、突発的なものの多さに崩れてしまうことを反省しています。

 気が付けば「ベストな状態」でならできるような仕事の計画を組んでしまい、予定外のことや少しでも理想的な状況からズレてしまうと、自転車操業状態になってしまうことで、教会にも家庭にも迷惑が掛かってしまうことに申し訳なさを感じています。

 しかし、そのような状況にあっても私を奮い立たせてくださるものがあります。それは神を求める人、神に従う人、神に仕える人の姿です。神との交わりに生きる人との交わりは信仰の励ましとなり、自分の弱さに嘆く私を支えとなっています。

 神に生かされ用いられ、人に親しまれ励まされて、今日も教会に仕えることができていることに感謝します。


    生まれる前から神さまに守られてきた私
    生まれて今日までみんなから愛されてきた私

みことばはみがき No.63

   詩篇 118:22-23
   家を建てる者たちが捨てた石 それが要の石となった。
   これは主がなさったこと。 私たちの目には不思議なことだ。

 今年は気候も暑い日が続き、早くも35度前後の気温が続いた1週間を過ごしました。庭の作業を始めると、たった10分水まきなどを行っただけでも汗だくになるほどです。

 教会の庭に咲いている花も様変わりしました。5月頃に玄関前に置いていたカーネーションやマーガレットは終わりを迎え、変わってアサガオやひまわり、桔梗が目立つようになりました。
 特に桔梗は日本の花のイメージも強く色も鮮やかであるため、妻に韓国にも桔梗は咲いているのか尋ねました。私が韓国に滞在していた時には見ることがなかったからです。

 すると思わぬ答えが返ってきました。韓国語で桔梗は「トラジ」と呼び、その花よりも根が長らく食用として親しまれていたのです。私もその単語や料理を知っていたため、余計に驚きました。
 当然、韓国では盛んに栽培されていましたが、観賞用として見ることがなかったので、出会うことがなく、日本では食用の概念がなかったので、食べ物として出会うこともありませんでした。

 花としてではなく根菜類としての新しい魅力を知った私は、新しい期待をもちながら、その花と終わりを楽しんでいます。


    見える部分の魅力によって愛され
    見えない部分の魅力によっても愛される

みことばはみがき No.62

   マタイ 7:1-2
   さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
   あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、
   自分が量るその秤で量り与えられるのです。

 西日本宣教セミナーが開催されました。「性的少数者~聖書的に、現実的に、愛をもって」をテーマに三日間、同性愛や性別違和などについての学びを行いました。これまで、教会は性的少数者(同性愛者や性別違和を持つ者などの総称)に対して差別的とも言えるほどの対応をしてきたことを学びました。その中で、これまで根拠としてきた聖書解釈が過激な適用であったこと、神学的な議論のみで当事者を見て来なかったことを指摘しました。

 この問題を取り扱う時、一人の人としての性自認と性愛(恋愛)指向とを分けて考え、性愛指向は結婚を前提に考える必要があります。神はすべての人をキリストへの信仰によって神の子どもとされると約束されました。一方で結婚については、自立した男女が神への信仰を通してなされる誓約によって与えられる祝福です。また、性愛行為は結婚関係の中でのみ祝福されるものです。

 同性愛行為は不倫や親子恋愛などと同じ性的逸脱の罪です。加えて私たちは同性愛行為者たちと、罪のかたちは違えども、神を傷つけている同じ罪人です。ですから、私たちは互いに神に生きることを目指し、支えることが求められているのです。


    罪人は罪人から身を避けるようとし
    義人は罪から身を避けるようとする者を支える

みことばはみがき No.61

   ローマ 11:36
   すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。
   この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。 
 
 創立記念礼拝が行われました。親教会から独立して初めての外部講師を招き、礼拝の説教と現在の教会の牧会の働きと恵みを共有していただきました。

 講師として招いた牧師は私たちの教会を始められた方でした。大きな宣教の計画の中で自分が担うべき働きは何かを祈りつつ考えられていた中で、教会を建てるにふさわしい土地があったと報告した時、その土地が既に協力宣教師によって購入され、ここで働きなさいと語れたことに大きな衝撃を受けたとのことでした。

 この出来事を単なる偶然と捉える人もいるかもしれません。自分の力ではないところでラッキーなことが起こると、その後もスムーズに展開し、良かったと感じることでしょう。

 しかし、この出来事には神の働きと信じる者の働きという背景がありました。宣教の計画を立てた牧師も、土地を見つけた牧師も、購入した宣教師も、それぞれが祈りや働きを通して神との対話を持つ中で導き出された答えでした。そして、それぞれの答えを照らし合わせた時、その一致した答えに神の計画と思いに確信をもつことになったのです。


    神に仕える者たちに与える神の答えは矛盾せず
    その働きに偶然ではなく確信を与える

みことばはみがき No.60

   ルカ19:4
   それで、先の方に走って行き、
   イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。
   イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。       

 宣教区の集会が岡山で、高校生集会が広島で行われ、2日間連続で参加してきました。忙しさ以上に対面での集会が行われたことで人と顔を合わして話すことのできる喜びを感じました。

 岡山での集会は配信の担当で、画面から離れられないこともあり、参加者は多かったものの挨拶以外の会話はあまりありませんでした。しかし、裏方に徹し、見えない働きとすることでつながる人々がいることを覚え、無事に働きを終えることができました。
 広島の高校生集会ではより裏方である、運転手として岡山からの参加者を連れていくことが最も大きな役割でした。つまり会場に着いたらお任せで奉仕も参加もなく、一緒にいるだけでした。

 一見すると働きの多い岡山での集会の方が有意義に感じます。私も行く前まではそうなるだろうと思っていました。しかし、実際は大きく違いました。片道2時間半に及ぶ車内での時間、参加者たちと活動について、信仰生活について話をしたり、妻と宣教についての議論を交わす時間は普段にはない尊い時間でした。

 その時間が尊いものとなるかどうかは、何をするかでも、疲れ具合でもなく、どのような関わりを持てたかだったのです。


    学びは届けてもらえれば得られるが
    交わりはその場に行かなければ得られない