ことばの栞 20230416

「新しいいのちに歩む葬り」 
 思春期の子どもたちが親の関心や愛情を確かめるためにあえて悪いことをして反応を見ようとするように、神の恵みが与えられていることを確かめるために、あえて罪にとどまることは正しいことなのでしょうか。罪を犯すことによって恵みはさらに広がるのでしょうか。

 パウロは決してそのようなことはないと断言します。特にキリスト者たちはバプテスマを受けたことに注目し、バプテスマがキリストの死に自らも同じように与ることを信じたしるしだと語ります。
 キリストが死んで葬られたとき、この世の罪の支配のからだは葬られ、解放されました。死んだからと言って、別のからだになるわけではありません。死によって解放されたからだに罪が入り込む余地はなくなりました。

 バプテスマはまたキリストの死に自らも同じように与ることを信じるしるしです。キリストがよみがえられたとき、死が再び訪れることはなく、育んだ関係が覆ることはありません。
 したがって死によって罪から解放されたからだは罪をいかに避けるかではなく、神に対して生きるものとなり、天国に罪がないように、生きる中で、罪の概念さえない世界へと導かれるのです。

 よみがえりによって与えられるいのちは、これまでのいのちの単なる置き換えではなく、神に対する生き方を目指すいのちとなります。罪をどう避けるかから、神とどう生きるかといういのちの志向の質的変化が与えられることが信仰の姿です。

 「神に対して生きる」とはどのような歩みや態度でしょうか。その歩みをふまえて、あなたは神に対して生きているといえるでしょうか。