「罪の奴隷と義の奴隷」
人を支配しようとした時に拘束する箇所は手と足です。どのような相手であっても、手と足に鎖がかけられていなければ支配したとはいえないでしょう。裏を返せば、手足が何につながれているかで、私たちが何に支配されているかを知ることができます。
奴隷にとって手足は拘束の象徴です。信仰をもってバプテスマを受けたにも関わらず、その手足が罪に拘束されているならば、その手足は不義の道具であると呼ばざるを得ません。一方でその手足が神に向くならば、それは義の道具と呼ばれます。信仰は手足の用い方を決定する力となるのです。
たとえ同じ行動であっても、捉え方で実りは大きく変わります。親が子どもをあやすことにおいて、愛を学び伝える働きとして捉える時、その手は義の道具となります。しかし、子どもを邪魔な存在と思いながらあやしているならば、そこに実りはなく、愛も生まれません。ただただ、そこに関係の悪化、亀裂、死の報酬が与えられてしまいます。
バプテスマを受けた神の奴隷には働きがあり、働きには実りが伴います。奴隷の働きは主人の手柄とされ、主人から働きの報酬が与えられるものです。もし奴隷がその働きを、手足を拘束するものだと捉えるならば、良い実りさえも罪の報酬となってしまうでしょう。しかし、その先にある神の計画や働きに目を向けるなら、その実りは私たちの働き以上に与えられていることに気が付くでしょう。
私たちは捕らわれていることに不満を持つのでしょうか。それとも用いられていることに感謝するのでしょうか。その選択を決めるものこそ、私たちの信仰の表れなのです。