「親の責任」
箴言 19:26-27
親に感謝すること、それが母の日や父母感謝礼拝の目的といえばそれまでですが、生まれてからの自分との関係を切り取ると、傷ついたり、嫌ったりしたこともあるでしょう。親への反抗心の源がどこかをたどる時、親がどう責任もって育てたのかという疑問に直面します。
反抗する子の気持ちを見ると、あれをしなさい、これをやめなさいという訓戒の煩わしさに、飼い殺されているような感覚に陥り、不都合な制限によって、親の束縛から解放されることが自由への第一歩であり、親は自由への敵に見えるでしょう。そして親の視線を監視だと思い、嫌気がさし、その視線から逃れるために親と戦い、自分の空間から追い出そうとする気持ちは、決して特殊なものではありません。
親から逃れれば新しい状況・新しい自分を作りだせると子が感じる一方で、反抗する子を抱える親は、親である責任と自分の弱さに多くの葛藤が生じています。自分も守れていない訓戒を教えなければ子が道に迷うかもしれない悩みがあります。子の暴走を何としても家庭内で留めておかなければ社会的な制裁や信用を失い、この地において生きづらくなることも知っています。そして親はいつでも子に手を差し伸べられるように、子に嫌がられながらも見守っています。
そこで教えられる訓戒は不完全な親であっても子に真理を伝え、正しい道を歩むために神から与えられた道具です。子が親に反抗し、訓戒を軽んじてしまえば、主に罪を犯すことにつながります。
親は子がどんなに反抗しても見放しません。神が人間を見捨てないのと同じです。その親の責任と愛とを理解することで、親への感謝と尊敬が生まれ、子としての歩みから自立していくことでしょう。