「圧倒的勝利者」
キリスト者たちは皆、神に救われていることを確信していますが、それがどれほどのものかと問われるとなかなか説明しにくいものです。なぜなら、救いが見える形で届けられるわけではないからです。それでは救いはどれほど確かなもので、力となっているのでしょうか。
信仰によって義と認め栄光をお与えになる神は、完全に私たちの味方です。神に背いて生きて、信じてもなお罪を犯してしまう弱い私たちにも関わらず、罰を与えるためではなく、和解と立て直すために赦しをもって働かれ、私たちとともにおられるのです。
信じる者が、救いに与れないのではないか、恵みが与えられてないのではないかと考えることが、むしろ神に敵対してしまう結果を招いてしまいます。
不完全な私たちのためにキリストは「罪を犯さない」ためにではなく「罪の責任をとる」ために十字架にかかって死なれました。神は私たちが信じてもなお罪を犯してしまう存在であることは百も承知でとりなしてくださり、味方であると宣言されました。
愛によってキリストのからだとしてつながれた私たちは、自らの行いや成果によって救いが変化することはありません。救いの保証は私たちではなく神にあり、罪の担保はキリストにあるからです。神によってのみ約束されたものだからこそ私たちは圧倒的勝利者なのです。
神の救いに確かさとは、神が必ず私たちの味方であることを踏まえて生きることができるということです。神は私たちに滅びの計画も罪の罰としてただ苦しめることはありません。ですから私たちも味方として働かれる神の見方を求めて応えましょう。