「ねたみを起こしてでも」
ローマ人への手紙の中でパウロから、様々な指摘をドサドサと受けて来たユダヤ人たちの自尊心は大きなダメージを負っていたことでしょう。そうなれば卑屈になり、ネガティブな疑問をぶつけたくもなるでしょう。パウロはそれさえも想定して自ら質問を提案します。
神はご自分の民を退けられたのでしょうかという問いに、決してないと断言します。退けられてきた神の働きよりも、神に背いてきた民の中でも偶像崇拝をしなかった民に心を留めて選び、残されてきた恵みと憐れみに目を向けるように勧めます。
また、ローマの教会にいるイスラエル人たちが、エリヤの訴えにある残されたイスラエル人たちと同じ状況であることが示されました。
神がイスラエルにつまずきを与えたのには目的がありました。それはイスラエルを倒し、懲らしめて罰を与えるためのものではありません。イスラエルがつまずいたことで異邦人へ救いが及んだのです。
異邦人へ救いが及んだことで、イスラエルに妬みが起こりました。そして、そのつまずきと妬みから、選びよりも神の憐れみによって救いが与えられることを知り、自分たちが神に背いていることに気付くことにつなげられ、神に立ち返ることを期待していました。
イスラエルがイエス・キリストを捨ててでも、それを異邦人の救いとの道として開かれた神は、イスラエルがイエス・キリストを受け入れるのであればなおさら大きな喜びをもって祝福してくださいます。
つまずきは神へとつながる大きなきっかけとなり、神との関係を再スタートさせる決心の機会を与えます。神は枝を折る厳しさをもちながらも、信じることでいつでも接ぎ木することを許される方なのです。