「寄留者として恐れ歩む」
敗戦を記念した礼拝を通して、私たちは日本の国民である前に神の国の民であることを覚えます。その民としてこの国で生きることはどのような歩みをするべきなのでしょうか。私たちは神との関係のみを深めるだけでよいのでしょうか。
日本が戦争へと向かう時、私たちの教会は外国を敵とし、日本の政府に立ち向かうことをしませんでした。この国を守ること、家族を守ることを戦争に加わることとして敵を見誤ったのです。良いことだと思って応答した先が悪に向かう危険があることを忘れることなく、心のふんどしを締めて、緊張感をもって見分けなければなりません。
私たちは神に子どもとされたのですから、父の子という関係の中で神に従順に生きることが求められています。自由に自分の欲望に従うとき、あらゆる手段で、悪の誘惑によって導かれることでしょう。
その悪に立ち向かうには善に向かうしかありません。善には目的があり、秩序を保ち、手段を選びながら進まなければなりません。その原動力が神の聖さに生きられる望みと喜びです。
なぜ神はそこまでして、私たちに聖なる者であることを求めておられるのでしょうか。それは、神ご自身が聖なる者であり、ご自身に似せて人間を創造され、憩いたいと願っておられたためです。
人が罪を犯してもなお、神は救い主を遣わし、その信仰によって罪を赦し、聖なる者とされようとしています。信じてもなお、不従順な歩みをしていたとしても、神が懲らしめを与え、私たちを悪に陥らないようにお守りになります。その時、私たちは懲らしめから逃れるのではなく、神に倣いたいと立ち返ることが求められているのです。