「生きるにしても死ぬにしても」
どのような権威の下においても隣人への愛は律法を満たすと教えに続き、パウロは隣人愛を実践するための態度や心がけについて取り扱っています。そのかたちとして、信仰の弱い人との付き合い方について取り上げています。
パウロ自身は信仰の強い人の代表格として周囲から考えられているでしょう。しかしパウロがローマの信徒たちに向けて信仰の弱い人を受け入れなさい、さばいてはいけないと語っています。そのことから信徒たちも信仰の強弱を意識していることがわかります。
食べ物や曜日感覚について話題に上げますが、パウロはそれらの考えの優劣を評価しようとはしません。むしろその弱さを受け入れながら、神との向き合い方を自分で確信を持ちなさいと勧めています。
そして信仰の強弱を立場として比較するのではなく、すべての人のために十字架によって死に、復活したキリストに目を向けさせます。
「神の子」「キリストのからだ」として主のものとされた者たちはキリストに向かってひざをかがめ、謙って信仰を告白することが求められています。なぜならイエス・キリストが神の子の手本として主のものであり、主に仕えることを通して、隣人愛を実践されたからです。
私たちは弱さを持って信仰生活を送る人々を強くなれるように励まし、矯正していくのではなく、弱さを受け入れ、向き合い、付き合っていくために主に心を向け、主の支えを求めるよう寄り添うのです。
弱さを無視して主と向き合うならば、その弱ささえも受け入れてくださった主の憐れみや弱さのうちにあるいのちの尊さを失ってしまいます。私たちが切り捨てるべきものは弱さではなく悪なのです。