エレミヤ 29:11
わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている
──主のことば──。
それはわざわいではなく平安を与える計画であり、
あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
これまでに何度か「キリスト教に入りたい」という言葉を受けたことがあります。その言葉の裏には、「入っていた」宗教の在り方に疑問を抱いたり、組織の責任者によって苦しみを受けた経験を通して、その宗教から離れたいけれども何かにすがりたい思いはあるということなのだと理解しています。
何かを信じていても報われない経験、そして信じていたものが間違っていたのではないかと知る経験。それらを想像すると何とも言い難い気持ちになります。
それだけに、信仰は苦しみを取り除く道具ではなく、苦しみのうちに希望と平安を与えるものだと伝えなければなりません。
どんなに苦しみを持ってキリストにすがりたいと願っていたとしても、主の前に背を向け、神に対して傷つけてきた自分自身の罪を認めなければ、神と和解することなどできません。
救いを急いで求めている人に、悔い改めなさいと声をかけるなら、きっと驚かれ、嫌な顔をされるのではないかと想像してしまうのです。だからこそ主ご自身が働かれ、その方にキリストとの出会いが与えられることを祈りながら、語りたいものです。
主の救いは苦しみからのものではなく
神に対する罪からのものである