ルカ19:4
それで、先の方に走って行き、
イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。
イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。
宣教区の集会が岡山で、高校生集会が広島で行われ、2日間連続で参加してきました。忙しさ以上に対面での集会が行われたことで人と顔を合わして話すことのできる喜びを感じました。
岡山での集会は配信の担当で、画面から離れられないこともあり、参加者は多かったものの挨拶以外の会話はあまりありませんでした。しかし、裏方に徹し、見えない働きとすることでつながる人々がいることを覚え、無事に働きを終えることができました。
広島の高校生集会ではより裏方である、運転手として岡山からの参加者を連れていくことが最も大きな役割でした。つまり会場に着いたらお任せで奉仕も参加もなく、一緒にいるだけでした。
一見すると働きの多い岡山での集会の方が有意義に感じます。私も行く前まではそうなるだろうと思っていました。しかし、実際は大きく違いました。片道2時間半に及ぶ車内での時間、参加者たちと活動について、信仰生活について話をしたり、妻と宣教についての議論を交わす時間は普段にはない尊い時間でした。
その時間が尊いものとなるかどうかは、何をするかでも、疲れ具合でもなく、どのような関わりを持てたかだったのです。
学びは届けてもらえれば得られるが
交わりはその場に行かなければ得られない