3月22日
入院中だった妻が退院し、サポートで着ていた母が家へ帰っていきました。限られた時間でありながら、親子クラスでの交わりやプランターでの学びをともにすることができて、母親もとてもよい教会の時間だったと語っていました。
帰る前、家族で話していたときに礼拝の説教についての話題になりました。聖書にも似たような内容が書かれていますが、息子として母親が説教を聞きにくいのではないのかと思い、このことについて質問をすると、母がこのように語りました。
「私は息子が説教をしているときに、
息子が話しているという意識は全然していません。
牧師が語る説教というのでもなく、
説教は神様の御言葉として聞いていると思います。」
このことばを聞いたとき、神の言葉を聞くことにおいて親子というフィルターをかけずに、自分と神の関わりとして直接その言葉を受け取っていく母の信仰を改めて尊敬しました。
しかしそれ以上に、息子の言葉としてでも牧師の解釈としてでもなく、神の御言葉として受け取られるということが、御言葉を取り次いで語る側としてどれほど大きな責任なのかも感じることとなりました。神の前に自分自身が立って応答しない限り、説教で語られる言葉が偽善になってしまうのだと感じながら、また今日も日曜日を迎えます。
キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、
あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。
肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを
断っているのです。
Ⅰペテロ4:1