6月24日
教会の目の前には大きな道路があるため、朝から晩までひっきりなしに車が往来しています。暑さをしのぐため窓を開けると大きな音が聞こえてきます。
朝には通勤の車が勢いよく通過し、昼には買い物や用事を済ませたのでしょうか、車がゆったりと通り過ぎていきます。16時を回ると車ではなく学校帰りの中高生が友達と話をしながら自転車を押して坂を上っていく声も聞こえてきます。17時を過ぎると晩御飯前に犬の散歩をしている方が通っていきます。そしてなぜか20時過ぎによく聞く救急車のサイレン。22時を回ると重低音のリズムを効かせた車もよく通ります。しかしどうやら一番大きい音は深夜に鳴り響く寝ている私自身の…なのかもしれません。
大きな音の中でも、耳を澄ませてみると、そこにはさまざまな音があり、違った人の営みが聞こえてきます。音が大きすぎるのは悩みの種になりやすいですが、音がない生活は本当に寂しいものです。誰でもじっくり耳を澄ませてみると、いつもは聞えてこない「音」を感じることもあるでしょう。そこに新しい気付きがあります。
聖書には音が記録されていませんが、聖書の言葉に音を想像して加えて読んでみると、また違った味わいが出てくることでしょう。
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。
だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、
わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、
彼もわたしとともに食事する。
黙示録3:20