10月18日
子どもをお風呂に入れていたとき、初めはただ、お湯を頭にかけて流していただけでしたが、ふとした瞬間に流れてくる水に手を伸ばしているのを見ました。
数日後、今度はシャワーや蛇口から流れ出る水に手を伸ばしていました。そして、また数日後、ベビーバスにお湯を足そうとして、風呂桶から流し込んでいると、滝のように流れ出る水を掴もうと手を握っていたのです。
「水は掴めないんだよなぁ~」と思いながら、微笑ましく眺めていたとき、この光景が信仰生活にも似ているなと感じました。
恵みが絶え間なく降り注いでいるのに、掴み取ることはできません。愛だって受け取ることはできても、掴んで自分のものにはできません。掴めないけれど、そっと両手を添えて広げると、注がれてきたものが溜まっていきます。
愛も恵みも掴み取るものではなく、受け取り、満たされるものです。掴もうとするなら、何も残りません。掴もうとした人が、「私には何も与えられなかった」と感想を述べるなら、それは間違ってはいませんが真実でもありません。
ただ、受け取る器でありなさい。その器を整えることが信仰であるなら、私たちは安心して待っていることができます。注がれるものが器を外れることも、足りないことも、壊すこともないからです。
このあわれみの器として、神は私たちを、
ユダヤ人の中からだけでなく、
異邦人の中からも召してくださったのです。
ローマ 9:24