8月11日
我が家では現在、毎日の聖書の朗読とは別に、毎月1回家庭礼拝の時間を持ち、互いに聖書のみことばを分かち合いながら祈りの時間を持っています。あらかじめ準備しておいた話をするときもあれば、その場で分かち合いながら、思いを深めていくこともあります。
今回は妻がこの家庭礼拝を準備し、語ることになっていました。1曲賛美して、みことばを読んで、妻の話を聞き始めました。
初めは、なぜこの聖書箇所を選んだのか、最近私たちが話し合ったことをもとに選んでいるのか、それとも課題を示しているのかと思い巡らしながら話を聞いていました。
その思い巡らしの中で自分に語りかけてくる声がありました。
「あなたの思いは正しいと言える。
しかしそれで人は傷ついていないだろうか。
いのちを失っていないだろうか。」
思いはあってもその形式が御心に適わなければそれもまた罪。このことばに動揺を覚えました。「やり方」は正しくても行う人々の気持ちや信仰を傷つけていないだろうかと自問自答し始めました。そして、主日の朝の学びのクラスで初めて自分の救いと献身の証をしたときの気持ちがよみがえり、こう思いました。
「あぁ、私は福音を教えよう、伝えようとはしていたけれども、
主に救われた喜びを伝えていなかったなぁ」
悔い改めるきっかけが与えられ、感謝な家庭礼拝となりました。
私は福音のためにあらゆることをしています。
私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。
1コリ9:23