「霊的成長の追求」
霊的成長ということばを聞くと、聖書をよく読み、よく祈り、より多く奉仕るようなイメージを持っている人も多くいるでしょう。しかしパウロはこれらのことばを使わずに霊的成長を追い求めていました。
霊的成長とは隣人愛の実践のかたちとして目指していくものであり、信仰の弱い人がいてもさばき合わないことだと語ります。弱さを克服させようとそれを指摘しても、それで傷ついている人がいるならば、愛によって歩んでいるとはいえず、隣人愛ではありません。
神の国には喜びがあり、優劣や争いではなく、互いを赦し受け入れ合う平和の関わりがあります。神の国にならうことで神が私たちに願っておられることは徐々に達成されていくことでしょう。
では霊的成長をどのようにして追い求めていけばよいのでしょうか。最も大きなポイントは、この追求は自分のためだけではなく、お互いの霊的成長について役立つように配慮していくということです。
良いものを目指していてもそれが互いを傷つけてしまうのであればそれらは避けなければなりません。自分の成果を評価してもらうとするあまりに、他人の働きを妨げてしまってはいけません。
どのような弱さを抱えていても神のみわざがそこに働かれるように整えていくことができます。自分の理想に導こうとするならば、他者の弱さは克服項目となり、自分の力で乗り越えなければなりません。
しかし、霊的成長は弱さのうちに働かれる神のみわざによって生かされていることもあります。一つの信仰の形のみが真実なのではなく、信仰の弱さのうちに働かれる神の恵みがあります。私たちはその人を通して神のみわざが果たされていく手助けをする者となりましょう。